海に落ちた松下幸之助の運

よく引き合いに出す話ですが、経営の神様と謳われた松下幸之助さんは、若い頃、大阪の築港というところから埋立地にある会社まで小船で通っていました。

 ある夏の夕方、会社から帰ってくるときに、船べりに腰を下ろして足をぷらぷらさせていました。そこにある船員が船べりを右に左に均衡をとりながら歩いてきて、幸之助さんをまたいで通ろうとしました。

ところが、その船員が足を滑らせて落ちそうになってしまったのです。そのとき、船員が目の前の幸之助さんの体をつかんだために、幸之助さんと二人でドブンと海に落ちてしまいました。


 このことを幸之助さんは、後世こんなふうに周りの人に語っています。
「わしは運が強かった。もし冬のときであったらたぶん助からなかった。夏の日に落ちて幸運だった。わしは運が強かった。さらに船長がすぐに気が付いて引き返してくれて引き上げてくれたので助かった。わしは運が強い」
「運が強い」とは九死に一生を得たような場合に使う表現ですから、幸之助さんが「運が強い」というのもわかります。しかし本当に「運」が強いという人はたぶん海に落ちたりはしないものです。海に落ちるという経験は大変珍しいもので、一生涯、船から海に落ちたことがないという人がほとんどのはずです。

 

 そこで、落ちること自体が幸運ではない、ツイていないということになると思うのですが、それを幸之助さんは、落ちたけれども
ラッキーだった。わしは運が強い」というふうに言い換えることができた人でした。

 

 幸之助さんはいろんな局面に出会いながらも、ずっと「わしは運が強い。わしはラッキーである」と言い続けた人だったようです。どんな不運に見舞われても「わしは運が強い。」「幸運でラッキーだ」「ツイている」と言い続けている人には、「運」が付いて回っているのではないかと、幸之助さんの周りの人は考えさせられました。

 

 車にはねられた体験を持つ人のなかには、たまたま一週間程度のかすり傷ですんだ、命に関わるようなことでなかったということで、「自分はラッキーだった。運がよかった」と言う人がいます。そういうふうに考えてはいけないと言っているのではありません。そのように考えられることはとてもいいことなのですが、本当に「運」が良い人というのは、車に当たらないのではないでしょうか。車にはねられることはないと思います。


 また、「とても運が良いことに、自分がぶつかった車の相手がとてもとてもいい人だった。話がこじれずに、とてもスムーズにお互いに気持ち良く事が解決できた」と言った人がいました。
「運が良かった。ラッキーだった。相手がいい人だったので良かった」というふうにその方はおっしゃたのですが、これも歓迎すべき話で、とてもいい話ですが、しかし本当に「運」が良い人というのが車をぶつけること自体がないと思います。


 つまり、このように考えていくと、「運」の良し悪しというものには、絶対的なものがないということに気が付きます。
自分が「運」が良いと思った人は、とことん「運」が良いのです。自分が「運」が悪いと決めた人は「運」が悪いのです。


 本当に「運」が良い人、「幸運」が続いているというのは、何も起きずに平穏な日々がずっと続きます。健康である。普通に食べられる。普通に出勤できる。普通に仕事ができる。普通にビールが飲める。普通に仕事ができる。普通に歩くことができる。
 これが最高の「運」の極みだと思います。幸運でラッキーな人は何も起きないのです。何も起きないことが最高の幸運なのですが、人間というのが悲しいことに何かが起きたときに、その出来事の中で比較的ラッキーだったと思うことと拾い上げて、「自分は幸運だった。ラッキーだった」と考えるようになっています。


 その考え方はとても良い考え方ではあるのですが、宇宙的な意味では、本当に幸運でラッキーな人は何も起きないのです。
でも何も起きない人、平凡な日々をずっと二四時間、三六五日送っている人ほど、「自分がラッキーで、幸運である」という自覚がありません、それが当たり前だからです。
何が起きてそこで救われた、大事に至らなかったときに、私たちは「幸運でラッキーだ」と思うようになっています。そう教え込まれてきました。


 宇宙的な意味での本当の幸運というのは、何も起きないで、普通の日々、普通の時間が淡々と過ぎていくということです。それ以上の幸運、幸福はありません。

                    小林正観